国土地図株式会社

江戸時代の地図と図式【江戸切絵図】其三

<地物-壱>

●江戸時代と実測図

 江戸時代にも全国各地で地図「絵図」が作成されていて目にする機会も多いですね。現代人の目から見れば、絵図はスケッチや見取り図的な精度の無いイイカゲンな地図のように見えますが、四角い紙面に目的のエリアを収録しているため絶対位置はともかく相対位置は正しいので、場所を間違えることは無いようです。

 わが国の正確な測量地図としては、文政4年(1821)に完成した伊能能忠敬の「大日本沿海輿地図」が想起されますが、これより約160年前の江戸初期、明暦3年(1657)1月の当時の江戸市街地の大半を焼いた大火事(振袖火事)のあと、幕府が都市復興の基礎資料とするため大目付北条氏長らに命じ、金沢清左衛門がオランダ流の測量術を駆使して、江戸城下とその周辺部(深川・本所・浅草・本郷・下谷・小石川・小日向・牛込・四谷・赤坂・麻布・芝)の江戸市域を、火事直後から明暦4年~万治元年(1657~58)頃に縮尺1/2400で実測しており、「明暦(万治)江戸実測図」として残っています。
 これを元にして、寛文10年~13年(1670~1673)に縮尺1/3250で「新板江戸大絵図・新板江戸外大絵図(寛文五枚図)」が刊行され、後の時代の江戸大絵図・江戸切絵図と骨格になったようのです。

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日本橋付近 寛文五枚図(1670~1673年頃)

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日本橋付近 江戸切絵図(1850年頃)

 

●江戸時代の絵図と地物

 現在の地形図では、取得する地物とその表現は図式規定で定められ標準化されていまが、道路マップなどの一般の地図は、使用目的があって作成されることから取得される地物も多岐にわたっています。では、江戸時代の絵図ではどうでしょうか?

■大坂・京・江戸の大絵図の比較

 下の絵図は、大坂市中(天神橋付近)、京洛中(三条大橋付近)と江戸市中(両国橋付近)を比較したものです。

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新大坂之図(方位:北)
明暦3年(1657)

京大絵図(方位:北)
享保3年(1686)

文化江戸図(方位:西)
文化8年(1881)

 何れにも地図の骨格である河川・湖沼・道路・橋は描かれています。またランドマークとなる城や陣屋等・神社仏閣については表現の方法は別として、どの絵図でも描かれていますがこのほかの地物はあまり見られません。新大坂之図では米蔵らしきものが、文化江戸図では江戸城の浅草御門が描かれているのがわかります。

■江戸大絵図と江戸切絵図の比較

 江戸の町の6割以上の面積を占めた大名屋敷や旗本・御家人が住む武家地では、現在のような表札もなく、また広大な屋敷に至っては塀が続き出入り口(門)の位置も定かでなく、訪問者が目的地を探すのにも手間のかかることでした。この不便を解消したのが江戸末期の19世紀前半に登場した「江戸切絵図」で、詳細な内容で便利なため明治の初めまで重宝されました。
 下の絵図は、江戸大絵図と江戸切絵図(神田川新シ橋(現:美倉橋、JR総武線浅草橋駅西側)付近)を比較したものです。左側の江戸大絵図では、紙面の制約から主要な道と大名や大身旗本はその所在地は確認できますが、それ以外の旗本屋敷・御家人組屋敷や町民が住む町は省かれ、文字もカタカナ書きで利用には不便なものでした。

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江戸大絵図(万延江戸図 1860年) 

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江戸切絵図(浅草絵図1857年)

 これに対して右側の「江戸切絵図」は、地域別に分割して制作したことから紙面にゆとりが生まれ、大名屋敷はもとより旗本屋敷・御家人組屋敷、この図にはありませんが大きな寺社から小さな稲荷、町家も町名はもとより町割まで詳しく記載され、文字も漢字書きとなり色数も増え見やすくなっています。

 次回は、「江戸切絵図」の地物をもう少し詳しくみていきます。

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