国土地図株式会社

江戸時代の地図と図式【江戸切絵図】其五

<江戸の町並み-其壱>

●城下町と町名
 江戸時代の城下町は、城を中心に周囲に家臣や職人・商人の居所を意図的に配置した、きわめて計画性の高い都市で、城の近くから外側に向けて上級家臣、中級家臣、下級家臣と階層に合わせて配置し、町人町でも同一業者は一箇所に集住させることが行われたため、その職業に由来する町名(桶町・鍛冶町・呉服町・材木町・大工町・伝馬町・博労町・旅籠町・両替町など)や、寺社名を冠にした門前町などは、全国の城下町の共通した特徴です。

 

●江戸城下(御府内)の範囲
 江戸開府以来、江戸の町並みは時代と共に拡大し、文政元年(1818年)に、明確でなかった江戸と在郷の境界の問い応えるために評定所での評議により「江戸朱引内図」を作成したと伝えられています。
 朱引き線は、いわゆる“御府内=徳川家の所領地”と云われる江戸市街と在郷村の境をあらわし、下の「江戸朱引内図」に赤線で囲まれている範囲になります。ほかにもう一本黒で線が引かれていますが、これは墨引き線で町奉行所の管轄範囲を表していました。

 

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江戸朱引内図(北を上に回転表示)
-東京都公文書館所蔵より引用-

東京15区範囲図
-ウキペイアより引用-

 

 明治維新後、幕藩時代の江戸朱引図を元にして画定された行政区界がありましたが、明治11年(1878年)に、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区の15区(上の東京15区範囲図)が設置されましたが、その範囲は旧朱引線よりは狭く、墨引線に近いように思われます。

 

●江戸城下の町並み
 江戸城下全体を現す大絵図は、切絵図と同じ嘉永年間の「嘉永江戸図」がありますが、この絵図では、江戸御府内の広がりや土地利用を具体的に捉えるには小々難がりあります。

 

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嘉永江戸図(嘉永元年(1848年)刊) -国会図書館HPより引用-

 

 次に掲載した「江戸全体図」は、江戸市街の広がりと土地利用が俯瞰できるよう、明治14年測量の2万分の1迅速図編纂図を基図として江戸切絵図を移写して作成したものです。
 概ね嘉永年間(1848~1855年)の江戸の状況で、中心部の白色のところが江戸城、武家地は薄灰色、町人地は薄紫、寺社地は寺を薄橙色で神社を黄色、火除地や土手地などは緑色、農耕地を薄緑色、河川・掘割・海は水色で区分し、日本橋を基点する五街道(東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道)を黒色破線で表しました。また、赤線は明治11年(1878年)の郡区町村編制法で画定された東京15区界を迅速図から書き起こしたものです。併せて現在の東京と位置比較できるように鉄道(JRは濃緑色、私鉄は緑色)と主要駅を上書きしています。

 

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江戸全体図(嘉永年間(1848~1885年)頃) -著者編集-

 

 この江戸全体図で見ると、江戸城を中心に武家地、寺社地、町人地の各々が纏って配置されているのがわかります。

 

※武家地(薄灰色の区域)
 江戸の特徴として武家地の割合が大変大きく、江戸城の北側・東側・南側の高台に集中しているだけなく西側の低地にまで広がっていて、諸説ありますが全体の60~70%程度もあったことがよくわかります。
 江戸市街の大半を占める武家地も大名家(一万石以上:廃藩置県時で236家)の江戸屋敷がその大半を占め、藩主やその家族が住む上屋敷(かみやしき:切絵図では家紋で表されている)は登城や勤番に便利なように江戸城下の西の丸下や丸ノ内・外桜田に、ご隠居や参勤交代で藩主に随行してきた家臣などが住む中屋敷(なかやしき:切絵図では■印で表されている)は外堀の内側に、別荘でもある下屋敷(しもやしき:切絵図では●印で表されている)はより外側および江戸近郊にありました。これらの大名屋敷は幕府から与えられた土地に建てられた拝領屋敷と、大名が民間の所有する土地を購入し建てた屋敷は抱屋敷(かかえやしき)と区別されていました。
 しかし、江戸屋敷の広さにも大名家の石高による格付けがあり、元文3年の規定によると一~二万石の大名で2,500坪、五~六万石で5,000坪、十~十五万石で7,000坪となっていたようですが実際はこの通ではなく、またすべての大名家が上屋敷、中屋敷、下屋敷を有したわけではなく、中屋敷を持たな大名家や複数の下屋敷を有する大名家など様々であったようです。
 徳川家の家臣である一万石以下の幕臣は御直参といわれ、将軍に拝謁できる御目見(おめみえ)以上を旗本と云い約5,300人、御目見以下は御家人と云われ約18,000人がいました。彼らの屋敷もまた幕府から与えられた拝領屋敷や組屋敷で、大身旗本は外堀の内側に、中小身旗本や御家人が住む組屋敷は外堀より郊外に配置されていました。また、この下に五役の者(中間、小人、黒鍬之者、掃除之者、駕籠之者)があり、その名前を冠した組屋敷や町屋敷を切絵図上で見ることができます。
 また、武家地の殆どは大名や幕臣の屋敷でしたが、評定所、勘定奉行所、町奉行所、寺社奉行所、定火消御役屋敷、御船手屋敷、郡代屋敷などの幕府の行政機関のほか、湯島聖堂、医学館、御薬園、養生所などの教育・医療機関、籾蔵、竹蔵、材木蔵、船蔵、馬場、火除地などの諸施設も絵図に記載されています。

 

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武家地(下谷絵図より):上屋敷・中屋敷・大~小旗本屋敷、御家人組屋敷がある

 

 上記の絵図では、中身旗本はフルネームで書かれているのに対して小身旗本では姓のみ、御家人では組屋敷名が書かれているだけと、家格=知行高や切米高(サラリー)より決められた敷地に大きな違いがあったことがわかります。

 

※寺社地(薄橙色と黄色の区域)
 江戸の15~20%を占めている寺社地は、江戸城外堀の外側に江戸城下を取り巻くように配置されていますが、特に東海道筋から入口にあたる高輪や芝と、奥州・日光街道筋からの入口にあたる浅草・上野に集中しています。

 

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浅草寺と西側から上野に連なる寺町(今戸浅草絵図より)

 

 絵図の右側が浅草寺とその境内の詳細です。真ん中を流れている川は、今は“かっぱ橋道具街通り”になっています。絵図の左側に寺院がたくさんありますが現在まで残っている寺院は、真ん中あたりの“海禅寺”、真ん中下の“東本願寺”、左下の“報恩寺”など数少なくっています。

 

※町人地(薄紫色の区域)
 江戸の人口の半数を占める町人が住んでいた町人地が残りの15~20%で、江戸城西側の低地と大川(隅田川)対岸の深川あたりに集中していました。
 また、町人地は大川から江戸湾に繋がる河川や掘割で構成される水路網による水運で結ばれ、川や堀沿いには荷揚げ等を行う河岸地(かしち)、倉庫があった蔵地や木置場などがあり、江戸の物流を担っていました。

 

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主要な町人地 (江戸全体図より抜粋)

 

 ちなみに、町人地が江戸町奉行所の管轄区域で、時代劇でお馴染みの与力・同心や岡っ引きが警察権を行使できるのはこの範囲内の町人や浪人に限られ、墨引線内であっても寺社地と坊主は寺社奉行に、武家地と武家は御目付のもとにありました。

 

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町人地:日本橋の南側(八丁堀築地日本橋南絵図より)

 

 絵図は、江戸で一番の繁華街で大店(おおだな)が軒を連ねていた日本橋“通町”付近になります。また、呉服丁、青物丁、元大工丁、南油丁、箔屋丁、檜物丁などの全国の城下町に共通の、その職業に由来する町名もみられます。
 このあたりの町割りは現在も殆ど同じで、絵図の“通二丁目右側と平松丁”の街区に 「COREDO日本橋:旧東急百貨店日本橋店」が、“通三丁目右側と新左衛門丁”の街区には「日本橋高島屋」が建っています。

 

By Motto-O